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2009年1月17日 (土)

阪神淡路大震災から14年、それはスキーから帰った翌日だった

 今日1月17日は決して忘れない。あれから14年が過ぎたわけだが、当時6歳だった子どもたちが、今年成人するのだがら、時の流れの速さをあらためて感じる。

 さてわが家はどうだったんだろう。あの日はちょうど1泊2日で兵庫の温泉町にもう1件の家族とスキーに行って帰った翌日の早朝のできごとだった。

 当時は今のマンションの前のマンションに住んでいたのだが、夫婦は、書棚とピアノにはさまれた真ん中で寝ていた。あと4人の子どもたちは、長男は1室のベッドで、他の3人は畳の部屋に布団をひいて寝ていた。

 どちらかというと一番危険な状態なのは、自分たちで、そのことは常に頭にあったわけだが、あの日は午前5時45分ごろ床が振動しだし、ふと目が覚めたが、だんだん振動が大きくなるのがわかり、思わず、立ってピアノを支えた。それから子どもたちに叫んだが、どこまでその揺れが続くのかわからない。今まで体験した範疇とはちがうゆれだ。じっとしているしかたがない。しかし地震のゆれは本当に恐ろしい。

 1分ほどの揺れだったのか、さだかではないが、一応収まって子どもたちの部屋に向かう。長男の部屋のドアには反対側の棚が倒れかかっていて明けられない。それを起こした。

 台所では、たしかかなりの食器が散乱している。

 なにがおこったのだろうと、表に出た。何人かが出てきていた。ずっと南の方では煙が上がっている。

 とにかくマンションの前に公園があるので、そこに非難した。ただし1月17日という日は今日と同じようにかなり寒い。

 家から当時庭においていた小型焼却炉を出してきて、まわりの人と一緒に暖を取った。

 ただその日の情報がない。

 ひとしきりみんなで待機していたが、そこらでガス臭さを感じたりした。

 家にもどると、一時停電した電気はなんとか復旧しているようなので、テレビをつけると、淡路島のどこかが震源で大きな地震が発生していたことが発表されていた。神戸付近の上空からの映像があったが、そこらじゅうで煙が上がっているようだった。

 もちろん電車は不通だった。月曜日なので仕事の日で、とにかく公衆電話で職場に連絡をとろうとしたが、かからない。結局夕方まで繋がらず、結局その日は職場にいけなかった。

 それで町中をまわり、同じ少年団の家庭に被害がないか見て回った。駅近くのマンションが一棟、マンションごと1階分崩れている。そこには少年団の家庭が一件あったのだ。

 また各地の交差点で水道管が破裂している。

 その日の生活はどうしたのかよく覚えていないが、水道は停止。ガスは停止。電気だけが正常だった。それで風呂には入れない。キャンプ用ガスコンロで食事はなんとかなった。

 翌日は仕事に行く必要があったので、今と同じように毎日自転車通勤はしていなかったが、臨時で自転車通勤した。

 そんなこんなで今思い出すとかなり大変なことがそのあともずっとあったわけだ。

 ただ自分が自転車通勤をするようになったきっかけもこの時にあったのかもしれない。またその年あるべき行事がことごとく自粛されたため、休みという休みはマウンテンバイクで北摂の山々や、しばらくして被害のひどい六甲も走った。登山で六甲荒地山付近をのぼった時はひどかった。本来あるべき道が岩の崩れで閉ざされていた。 

 考えてみるとあの出来事は何かの基点になっているように思う。そのあといろんなことが変わったし、建物に対して抱いていた根拠のない安心感がくずれた。

 数年後、今考えると心身症ではないかと今思うのだが、仕事をやめることを真剣に考え、実行に移しかけたときがある。

 まあそのあとある意味吹っ切れていまにいたっているわけだが、あの1995年は自分の人生にも大きな影響をあたえている。それはたくさんの人がそうなのだと思う。

 ただあの震災を決して忘れてはいけないと今日は心に誓おう。

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